第6章 日系社会の分裂対立(2)

在留同胞社会からコロニアへ

永住の覚悟と二世への教育熱の高まり

帰国しても生活して行くことができない祖国の状況は、「錦衣帰郷」を夢見ていた一世たちに、帰国をあきらめさせ、永住の覚悟を決めさせることになった。
ブラジルに永住する覚悟ができると、子どもたちを安定した地位につけるため、にわかに教育熱が高まった。両親と兄姉が働いて、弟妹には無理してでも大学に行かせるようになってきた。大学進学率は戦前の約10倍となり、ブラジルの平均をやや上廻るまでに上昇した。このころは、法学、医学、歯学、薬学、農学、建築など専門的職業に結びつく学科を専攻する者が多かった。
また、成人した二世の社会進出も目ざましく、1954年(昭和29)には二世の田村幸重が連邦下院議員に当選している。

二世問題

このような二世の成長とともに、一世は二世が自分とは異質な大人になったことに戸惑い、二世は日本的であるべきか、ブラジル的であるべきかの「第二世問題」について議論がかわされた。ブラジル人社会に同化しようという二世にとって、日本人の長所は必ずしもブラジル人の長所にはならず、もはや戦前期のような「立派な日本人であると同時によきブラジル人」や「日本文化を身につけたよきブラジル人」という理想が必ずしも通用しなくなってきた。

州外への転出と都市部への集中

戦争中の移動の制限が解除されると、森林を伐りつくし、原始的略奪農法により地力が減退したサンパウロ州から事業の拡大を求めて、パラナ州、マット・グロッソ州、ゴイヤス州など他州の未開地へ移動する人や、増収と子どもの教育を目的として、あるいは奥地の日本人集団地の勝ち負けの対立を逃れて、サンパウロ市とその近郊都市部に出てきて、家族労働で洗染業(クリーニング業)、理髪業などの自営業や都市向けの集約的な農業(蔬菜・果樹・養鶏)に従事する人が増大した。
サンパウロ市の邦人人口は1939年(昭和14)3,467人から1958年(昭和33)62,000人に20倍近く増加した。

在留同胞社会からコロニアへ

このころから、これまでの一世を中心とした日本移民社会が成人したブラジル国籍の二世を含むようになり、「在留同胞社会」「在留邦人社会」という呼称がもはや実態を表さなくなったということで、代わりにポルトガル語の他国からの移民集団を意味するColónia(コロニア)という用語を使い「コロニア・ジャポネーザ(日系コロニア)」(略して「コロニア」)という呼称で呼ばれるようになっていった。

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